2016年11月11日金曜日

平家物語と方丈記の関係



          平家物語と方丈記


平家物語の生成―平家の作者は誰か、そしてそれは何時ごろ、どのようにして今の形に出来上がったのでしょうか。このテーマは、まだ完全に解明・実証されておらず、平家の作者一つをとっても今もって大きな謎と言ってもいいでしょう。平家物語の誕生については、兼好法師の書いた徒然草の226段にその一文がありますが、世の研究者はこれを一つの出発点としております。

今回の「平家を語る」は、巻の五にある「都遷り」を取り上げ、鴨長明が書いた方丈記の引用との関係を取り上げ、平曲奏者の立場から、ロマンの思いもこめて、作者の編集意図に軽いタッチで迫りたいと思います。

時代的背景と平家物語誕生の下地


保元・平治の乱で平氏が台頭し、平家の天下となり、治承4年5月(1180)源三位頼政の旗揚げに始まった源平両武士団の闘争は、やがて寿永4年3月(1185)、安徳幼帝の壇ノ浦入水にその終焉を告げました。

この貴族の支配から武者(むさ)の時代の変革をもたらした大乱の中で活躍あるいは見聞きした人々の話は、いろいろなエピソードとして作り上げられ、生々しく口語りに伝わったに違いありません。

あるいは断片的に、プレ平家なるものが、すでに平家物語成立以前に、琵琶法師や説教師が語っていたのかもしれません。しかしそこには、あとで数多くの事件事柄を、歴史小説として総合的にまとめ、精錬し、編纂した編集者がいなければなりません。はたしてそれは誰なのか。

またこの平家物語の誕生には、平家人を死に追いやった為政者(朝廷と源氏)が、平家滅亡直後に次々起こった天変地異を平家怨霊の仕業と怖れ、国家安寧のために、その鎮魂を目的とし、大きな国家的レベルとして行ったという有力な仮説もあります。 

冒頭に述べた徒然草の平家作者は、貴族の信濃前司行長(歴史の記録では現れない)であると書いてありますが、例えば、現代作家の吉川英二が、新平家物語を書いたように、当時、一人の作家が、今に残る平家物語の全文をすべて書いたというわけではありません。

平家物語は、壇ノ浦で平家が滅亡してから、約30年後あたり(承久の変)にまず最初の平家物語が出来、それから幾多の人の手を経て、のべ約6、70年近い歳月をかけ、いろいろな説話・エピソードが付け加えられ、編集構成され、ブラッシュアップされて今の平家物語になったと思うのが自然でしょう。しかし、そこには、書く目的、テーマが最初に出来上がっていなければなりません。くわえてその作業にはかなりの費用が嵩みます。もちろん創作のパトロンは、兼好法師の言う慈円で間違いないのかもしれません。

()(ちん)和尚(慈円)と大懺法院(だいぜんぽういん)

慈円は比叡山延暦寺の管主(最高位の僧職)です。慈円は、時の権勢の実力者である藤原一族の英才、九条兼実の弟でした。兼実は、当時の実相を著した日記の名編、『玉葉』をつづり、慈円は、日本の國初以来の世の中の移り変わりをつづった歴史書『愚管抄』を著しました。因みに兼実は時の天下人(てんかびと)頼朝とも盟友でした。

その著の歴史書「愚管抄」で、見られるとおり彼は鎮護国家思想の持ち主であります。

大懺法院は、後鳥羽上皇の御願寺で平家の怨霊や崇徳上皇を鎮める為の祈祷寺として東三条に建てられました。此処で注目すべきは大懺法院の供僧として平家一門に縁のある僧侶や説教の名手など賢人と言われる人が多く集まりました、その中に平家随一の強弓、能登の守平教経の遺児で律師忠快等もいます。貴賎を問わず、説教師や音曲堪能の人たちも集められました。これは何を意味するのでしょうか。

兼好法師は、徒然草226段で、「慈円が、一芸有あるものをば下部(しもべ)まで召し起きて不便に召させ給ひければ・・・」と記しています。 

平家物語の成立に関連して、この大懺法院に最初に注目したのは、調布市出身の国文学者、筑土鈴寛つくどれいかん)でした。 

この寺が、慈鎮和尚を大スポンサーとする平家物語りの大編纂の場となった事は、「最も怖れられた保元以後の怨霊で崇徳上皇、安徳天皇、平清盛の滅罪と鎮魂の法会がいとなまれたことであろう」と述べています。

いろいろプレ平家を断片的エピソードとして琵琶法師が巷で語っていたのかもしれません。これらのものを、あらゆる各所から拾い上げ、取材収集し、これが基本草稿となり、当時の和・漢籍の知識に秀でた僧侶、貴族が、編集者の役割を担い、歴史書や貴族の日記等も渉猟し、文を練り上げ、一大文学に仕上げたものに違いありません。当時の天変地異(地震、辻風、大火災)と、清盛の悪逆行為の一つに加えている福原遷都の処は、鴨長明の都遷りからそっくり原文のまま、あるいは類型引用されています。それは盛者必滅に結びつく悪行行為の重大要素であり、これを取り上げたところに、平家物語の編纂目的が隠されている気がします。

福原遷都と鴨長明

「都遷(みやこうつり)は、方丈記の、都遷りの文章が、五つの不思議の一つとして、そっくり引用されています。

当時の国家体制の根幹は、天皇とそれを支える藤原摂関政治(王法)と南都北嶺(興福寺・比叡山)を中心とする国家守護を自認する寺社勢力(仏法)でした。王法と仏法は、持ちつ持たれつの「牛角」と言われ、共存体制の二柱なのです。

これを、一大の英傑、革命児、清盛が、真っ向から立ち向かい、粉々に破壊しようとしたのですからたまりません。興福寺、三井寺を焼き、福原遷都を断行し、400年の平安の都を廃都にしたのです。仏法守護の要、叡山は都から見て鬼門の丑寅(東北東)にあります。都がなくなってしまうとその存在価値はありません。都あっての叡山です。もう一度帰ってきてほしい。一方福原は、海に近く六甲連山に挟まれて、土地も狭く、都市づくりも、計ってみたら、五条までしか割れません。高倉院は、潮騒に悩まされ、病気になってしまいます。貴族たちも、仕方なく清盛については来たものの、都恋しく、不平たらたら。建設も進まず、清盛も諦めました。叡山の意を汲むということで、手を打ち、6か月で都帰りするのです。都遷りも、あっという間に決めましたが、翻意するのもあっという間です。
 
そのドタバタ混乱ぶりを、鴨長明は、自分の足と目で福原を見て、「古都はすでに荒れて、新都は未だならず」という名コピーを残しました。今生きていたらさしずめ、長明は腕利きのルポライターといったところでしょうか。 

平家物語は、滅んだ平家一族の怨霊の鎮魂のため

平家の編纂目的は、怨霊の鎮魂ですが、「盛者必滅の論理から、都遷りのような悪逆非道をした清盛、平家一族は栄えない。ここまではいいのです。しかしその後が厄介、滅びた平家、特に清盛は激しく怨霊となって、現体制派を責め、死後も世に悪さを仕掛けるのです。世の人々は、当時の地震、辻風、大火は、怨霊のせいだと信じていました。 

そこで当時の権力者、後白河法皇と仏法の守護者慈円は、平家につながる怨霊たちの魂魄をしずめるべく、寺を作ったり、位階を授けたり、平家物語を作って、琵琶法師たちに鎮魂の語りをさせたということでしょうか。

因みに方丈記が書かれたのは、壇ノ浦の戦いから27年後の1212年ですので、当然平家物語もその後の作ということになります。鴨長明は、1216年方丈記を書き終えた4年後に没しました。この方丈記を取り上げた何時頃だったのか、編集者は、或いは鴨長明をよく知る人だったのかもしれませんね。